検事として沖縄に赴任していた祖父は沖縄戦で九死に一生を得て、残りの人生を戦災孤児救済という福祉に捧げようと決心した(実際、祖父は検事を辞めて200人の戦災孤児を引き取って彼らに寄り添っていた)

祖父の思いを引き継ぎ、児童養護に身を捧げている僕にとって、どうしても訪れたい場所があった
過密強行スケジュールではあったが、祖父に関する史実を手掛かりに、真壁と摩文仁という場所を先日の日曜、訪ねた

52歳の祖父が生死をかけて彷徨っていた場所を高い場所から眺める
美しい浜辺には波が繰り返し寄せている

僕は喪われた御霊にただただ祈るしかなく、福祉への思いをあらためて募らせた

祖父の52歳の7月、僕の52歳の7月、僕にとっては区議会議長として、活動の原点に還る場所でもありました

普天間では日米の国旗が寄り添い旗めいていた
現地の方が、これ見ると今は平和なんだよなあ、ってつくづく思う!と話していた

以下 祖父に関する史実より

『真壁への山道のあちこちには死体が散乱していた。

死体は皆仰向けになっているのが不思議であった。照明弾がジャンジャン引っ切り無しに上がっており、夜間でも昼間のように明るく周囲の景色が実によく見えた。
真壁では先発していた裁判所の所長以下判事、書記等と合流する事が出来た。ところが爆撃を受け、隣の部屋の判事、書記等は全員死亡してしまった。正に壁一枚が生死の分かれ目であった。

摩文仁でも人家は全て爆撃されて野原のようになっていた。島民は穴を掘って板を乗せ、土を被せた簡単な防空壕に避難していた。
ある時壕の辺りに砲弾が落ち多くの島民が死んだが、幸い池田氏は爆風で2~30m吹き飛ばされたものの無事であった』

港区の希望あるまちづくりを果たしていく、沖縄をあとにして気持ち新たにエネルギーに満たされた